エクシブ箱根離宮 散策倶楽部
『地元民がご案内!箱根路地裏散策vol.16 甘酒茶屋編 ~江戸の石畳を巡る~』
2014年12月17日(火)

年の瀬迫る12月17日、お忙しい中お集まりいただいた皆様と2014年最後の散策倶楽部です!
今回は芦ノ湖湖畔の元箱根から旧東海道の石畳を辿り江戸の旅人へ思いを馳せていきます。
3組8名様のご参加を頂きました。いつもありがとうございます☆


まずはホテルロビーでのオリエンテーション。
今回の目的地である芦ノ湖は氷点下の予想です。みなさま防寒対策にぬかりはありません!
それでは元箱根までバスに乗って出発です!

元箱根の現地集合の方とガイドの方と待ち合わせ場所である元箱根港に到着です。
この日は桟橋は、写真でごらんのように風が強く、海賊船は運航を中止していました。

この先の旅路に不安を覚えつつ、改めてガイドの方とオリエンテーションを行います。
今回のガイド、佐藤さん(左から2人目)は元箱根で「山小屋佐藤」というカフェを営む箱根の自然とコーヒーをこよなく愛するおじさまです☆
サラリーマン生活を経て定年退職後にカフェを開かれたとのこと。
今日の午後は、「山小屋佐藤」さんにもお邪魔してこだわりのコーヒーをいただきます♪

さて、いよいよ散策開始ですがこの芦ノ湖欄干の下部にご注目ください。
芦ノ湖の波しぶきとこの気温によりつららができていたんです!
そしてここで私のデジタルカメラは寒さにより早くも息絶えました・・・・
これ以降は携帯電話の写真でお送りいたします。

ここで、芦ノ湖湖畔から旧街道への道に入って行きます。

少し杉並木を進んだ石碑のところで佐藤さんのガイドがはじまりました。

こちらの石碑は、「ケンペル・バーニーの碑」です。
ケンペル(左)は江戸時代、日本を訪れ長崎から江戸へ1691、1692年と2度参府しましたが、その途中、箱根を通過する際に、箱根の自然に魅了されました。
その後出版された「日本誌」にて紹介され、箱根について世界にはじめて発信されました。

前述の写真の左の石碑が建立された当時の写真です。こちらは1922年にバーニー(上記写真右)によって建てられました。
バーニーは明治時代に日本へ来日し、長崎や神戸で事業を展開した商人です。箱根に別荘を建てた、最初の外国人として知られています。
バーニーは箱根を大変気に入っており、上記のケンペルの著書の序文を用いて石碑を建て、箱根の自然の素晴らしさと日本人との友情を示しました。

さぁ、いよいよ箱根旧街道を歩いていきます!

ところどころでガイドの佐藤さんから説明が入り、当時の思いを馳せていきます。
このガイドがあるのと無いのとでは、このツアーに参加する意義はまったく異なってくるんです!

急な石畳の道を進んでいきます。
箱根の山は天下の剣という言葉を痛感します!
佐藤さんによると石畳を歩くコツは石の真ん中ではなく端を歩くことだということ!
石の真ん中は滑りやすく、特にこの時期は凍っている可能性もあり危険なのです。

急な上り坂はあと少し!みなさん頑張って!!
と、頑張って皆様が上っているこの坂は権現坂という名前がついています。
今は木々が生い茂ってなかなか見えませんが、古くは箱根神社の鳥居や富士山を眺めることができ、箱根路を歩く旅人が急所・難所をあえいで辿りつき一息ついたと言われています。

急な坂を上りきったところにあるこの交差点。
石畳の旧東海道(権現坂)と、鎌倉時代の官道である湯坂道への分岐点です。

この交差点に立つこの石柱。享保16年(1731)に建てられたもので「六道地蔵菩薩江之道」と刻まれています。
国道1号線沿いにある精進ヶ池沿いにある石仏群へつながる道であることを表しています。
またこのあたりはさかさ富士別荘地といい、かつては芦ノ湖に映る、逆さ富士が見えたといいます。
現在は木々が生い茂り逆さ富士を見る事は難しいですが、天気が良ければ富士山を拝めるとのことです。

交差点を抜け石畳をさらに進みます!
こちらの石畳の横に生えているものは、「ハコネダケ」と呼ばれる竹の一種です。
江戸時代に旧街道は石畳へと整備されましたが、それ以前はハコネダケが敷き詰められていたそうです。
痛んでしまうため年に何度も取り替える必要があり、当時はかなりの人手とハコネダケを要しました。
また、雨の日はすべりやすく危険なものでした。

道中進むとこんな碑がありました。箱根馬子唄の碑です。
馬子唄とは、馬喰(ばくろう)とよばれる馬の売買人や馬に荷を乗せて運んだ馬子が、峠を越えるときに唄ったものです。
この碑には、馬子唄の有名な詩「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」が刻まれています。


>>> 次のページへ