エクシブ箱根離宮 散策倶楽部
『地元民がご案内!箱根路地裏散策vol.17 元箱根編②
~浜美枝邸でのイタリアンランチと知られざる元箱根巡り~』
2015年4月23日(木)

箱根でもあちらこちらから桜満開の便りが届く季節となって参りました!
そんな2015年度初めての散策倶楽部は2年前に引き続き2回目の箱根町編!
桜満開の芦ノ湖箱根町周辺を舞台に今回も散策をしてきました。
本日は10組22名様ものお客様にご参加いただきました。


まずはホテルのロビーにて本日のスケジュールのご案内です♪
今回は伊豆箱根バスにて、宮ノ下温泉バス停から箱根関所前バス停まで30分ほどかけて移動します。

箱根町集合のお客様と合流し、改めて今日のスケジュールをご案内します。
空も晴れ、立っているだけでも少し汗ばむほど。
もくもくとした積乱雲が季節の変わり目を伺わせます!

箱根町バス停から歩いて15分ほどで本日の第一スポット
「パール・下中記念館」さんに到着です。

重厚感のある建物が印象的です。
今回の散策クラブのイベントにむけて、館内をきれいに清掃していただいたとのこと。
たくさんの手持ちの資料もご用意いただきました。
ご協力ありがとうございます!

記念館の入口をくぐると、ラダ・ビノード・パール判事と下中彌三郎を称えて、インドの国旗と日本の国旗が掲揚されていました。

こちらは記念館の管理に携わっていらっしゃる廣川さんです。
館内のお掃除や資料の用意など前々からこの日の準備ためにご尽力いただきました!

パール判事は、戦後の東京裁判に携わった連合国11カ国11名の判事のうち、唯一A級戦犯全員の無罪を唱えた判事です。国際裁判を経験したのはパール判事のみであり、判事としての視点から、戦勝国だけが戦敗国を裁くことができるのは不合理だと主張しました。
パール判事は、裁判の始めから日本を「侵略国」であると決めつけていることに不快感を示し、「かつて欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそがまさに侵略である」と訴えましたが、パール判事の訴えも空しく、パール判事の意見書が法廷の場で読まれることはありませんでした。
パール判事の意見書は終戦直後の多くの日本人の心を捉えました。
百科事典出版が有名な「平凡社」の創立者・下中彌三郎もそのひとりでした。彼はパール判事の主張に大きく影響を受け、広島で開かれた国際会議「世界連邦アジア会議」にパール判事をしょうへい招聘、義兄弟の契りを結び、世界の正義と平和のために尽力しようと誓い合いました。
その2人の思いを祈念して建てられたのがこの「パール・下中記念館」です。


皆さん、廣川さんが語る戦後の歴史秘話を熱心に聴いてくださっています。

こちらは東京裁判の際に判事が法廷でかけていたという椅子です。
パール判事がかけていたものかもしれませんね!
パール判事は椅子にかけながら、どのようなことを感じ、裁判に参加していたのでしょうか。

戦中を生き抜いてきたお客様もたくさんいらっしゃいました。
当時のことを思い、感慨深げにお話を聴いていらっしゃる姿が印象的でした。

資料の中から親交のあった方のお名前を発見されるお客様もいらっしゃり、戦争を経験していないスタッフも身にしみて、戦争を現実のものとして感じたように思います。

2階も拝見させていただきました。

2階の展示物も皆様興味津々で見られていました。

廣川さんがご案内するこちらの資料は・・・

こちらはA級戦犯28名の被告うち絞首刑を執行された7名が絞首台にあがる直前に、手錠をかけられたまま書いたという直筆の署名です。
アメリカがA級戦犯を起訴したのは昭和23年の4月29日の昭和天皇の誕生日。
絞首刑が執行されたのは、昭和23年の12月23日の現在の天皇陛下である今上天皇の誕生日にあたる日付でした。他にも、バターン攻略の指揮を行った本間雅晴中将に対しては本間中将が総攻撃を命令した日付に死刑執行にするなど、アメリカの日本に対する戒めの思いが日付からも伺われます。
また、A級戦犯として処刑された7人の遺体は、遺族の元に返されることなく、遺灰として太平洋に撒かれたのだといいます。

パール判事が着用していた法衣や礼服、背広も展示されていました。
法衣は、東京裁判の際に着用していたものだそうです。

こちらは戦後になり、ケネディ大統領から下中彌三郎向けて送られた返信書簡です。
「人類三十億の法治共同体をつくる」というケネディの理想に感銘を受けた下中彌三郎は、ケネディの大統領就任を非常に喜んだといいます。就任に伴い、下中彌三郎はケネディにご意見番とも言えるような立場から今後世界平和のためにはどうすべきであるか意見の手紙を送りました。
ケネディからの返信を首を長くして待っていた下中彌三郎は世界連邦運動の懇親会中にやっとこちらの書簡を受け取ることができました。
ケネディ大統領の手紙には下中の手紙への同意と感謝の言葉がつづられており、その内容に下中は大いに満足したのだといいます。
下中は懇親会で慣れないカクテルを2杯も飲み、大変上機嫌で帰宅、そのままその夜に亡くなったのだといいます。

国境のない世界地図を背景に、パール判事と下中彌三郎の胸像と写真が飾られていました。


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