「ういろう」といえば、名古屋と思われている方が多いかと思いますが、実は「ういろう」発祥の家が小田原に存続していることは知る人ぞ知るところです。 さらにその歴史は、650年ほど前の中国の元(げん)の時代に遡ります。 元は、1368年に明(みん)に滅ぼされますが、このとき、日本における外郎(ういろう)家の初代となった陳延祐(ちんえんゆう)は、命からがら日本に亡命し、九州の博多に行き着きました。 陳一族は、延祐が、中国で「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」という役職についていたため、その官職名の一部をとり、後に、日本では「外郎」姓を名乗るようになりました。 延祐は、製薬や医術に関する中国伝来の知識・技術を持っており、それを二代目の宗奇(そうき)が継ぎました。 宗奇は博多を離れ、京都に上り、足利将軍に仕えました。宗奇が処方する薬は、効果があり、朝廷や幕府の人々に重用され、当時の天皇から「透頂香(とうちんこう)」という名前を授かりました。 ちなみに、お菓子の「ういろう」を生み出したのも、この二代目の宗奇です。将軍に信頼された宗奇は、外国使節の接待なども担当しており、その接待に用いたのが、今に伝わるお菓子の「ういろう」です。 五代目の定治の時代、永正元(1504)年に戦国時代の幕開けとなった戦国武将、北条早雲の招きに応じて、小田原に移住してからも500年以上商いを続けられています。 江戸時代にはこれから箱根の山を越える旅人達のお守りとして透頂香が購入され、お店は繁盛しました。 また歌舞伎俳優の二代目市川團十郎が持病で声が出なくなった際には、「透頂香」を服用したことにより病がすっかり治り、そのお礼にと演じたのが歌舞伎十八番の「外郎売」と言われています。