進んでいくと、横一面に石垣が広がっていました。石垣山城(一夜城)は、小田原城攻めのために築かれたものですが、秀吉という大将がいたからこそ、このように頑丈に「守る」つくりとなっています。
|
この石垣は算木積みという技法で、滋賀・近江の寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団として有名な穴太衆(あのうしゅう)の手によって積まれました。
ごつごつと不規則な形の石を積み上げるというのは大変困難な技法です。また、石垣山城(一夜城)築城にあたっては、約4万人が動員されたといわれています。
|
こちらの右側斜面にも前の写真と同じように石垣が組まれていましたが、関東大震災で崩れ落ちてしまいました。
この間の東口外門から城内に入っていきます。
|
手前の規則正しく並ぶ石は用水路であった跡です。水分は生きる上でもとても重要なものとなってきます。
自身を守るためにも、このような水源はしっかりと確保されていたようです。
|
岩がところどころに転がる道を抜けていきます。門跡を進むと、途中で3箇所ほどL字に曲がる道がありました。
これは横矢掛かりといい、侵攻してくる敵に対して、横から攻撃を加えるための構造です。
|
ところどころに看板があり、散策を楽しみながら理解を深めることができます。
|
石垣山城の標高最高地点にあたるのが、こちらのこんもりとお椀を伏せたような「天守台」。
標高は261.5mあり、小田原城本丸よりも227m高い位置にあります。物見櫓が発展したようなもので、天守台といえば、その城主の権威を象徴させたものといえます。
|
この天守台からは、「天正19年」と記された瓦が発見されています。小田原城攻めが天正18年なので、
その翌年まで秀吉が滞在していたのか…? と疑問が残ります。謎はまだまだ多いようです!
|
天守台から小田原城までの距離は3kmほどで、小田原城や城下や相模湾を見渡すことができ、小田原攻めには最適の場所であったとわかります。
|
写真は、小田原攻めの両軍の布陣を表した図です。小田原城に篭城する北条軍は5万6千人に対し、秀吉軍は海から山まで22万人の大軍勢で取り囲んでいたといわれています。
天下分け目の合戦といわれる「関ヶ原の戦い」が東軍・西軍あわせて15万人~18万人といわれていますのでどれだけ小田原攻めの軍勢が凄いかが数からもわかります!
|
こちらは、本丸と二の丸の境目です。この本丸入口で、秀吉はこの階段から宴を眺めていたとも言われています。
一夜城で開かれる宴の騒ぎが小田原城まで聞こえ、北条軍は戦いの最中のこの騒ぎに、非常に驚いたのだそうです。
|
秀吉の馬印にもなっているひょうたんがここにもありました!宮ノ下でも数多く見られるひょうたんのシンボル。
これも宮ノ下にある「太閤の石風呂」で、秀吉が戦疲れを癒したということから、シンボルとされているものです。
豊臣秀吉と箱根の縁は、箱根にあるひょうたんの多さからも伺うことができますね!
|
北側の櫓(やぐら)付近から見た箱根外輪山です。障害物もなく、空が広く感じられます。
|
こちらが井戸曲輪です。「淀殿の化粧井戸」や「さざゑの井戸」と呼ばれます。もともとが沢のような地形だったため、
その地形を利用して井戸がつくられました。
|
実際に下りて近くまで見に行ってみると、ダムのように大きな空間が広がっていました。石垣が一面に広がり、迫力満点です。この石垣も前述の職人集団の穴太衆(あのうしゅう)が野面(のづら)積みという手法で積み上げ、ダムのように仕立てました。穴太衆の石垣は、コンクリートブロック壁の強度を上回る実験結果もあり、国宝・彦根城や今話題の天空の城・竹田城の石垣も穴太衆の仕事といわれています。400年を経過しても崩れが少ないのは、穴太衆ならではです。
|
天守閣と、この井戸曲輪の延長線上には小田原城があり、何か狙いがあったのでは…?と推測されています。
まだまだわからないことがあり、その時代を想像するというのも楽しみのひとつですね。
|
無事、石垣山城の散策を終え、最後に石垣の前でみなさんと集合写真を撮りました!
今回はなかなかのハードな散策でしたが、最後までご参加いただきありがとうございます!
皆さんと無事一夜城までのぼることができ、やっとのことで食べられたランチは格別なものでした。
スタッフ一同、次のご参加をぜひぜひお待ちしています!
|
<<< 前のページへ
|
>>> 次のページへ
|