エクシブ箱根離宮 散策倶楽部
『地元民がご案内!箱根路地裏散策vol.12 箱根湯本③ ~曽我の命日と箱根の文化財を辿る~』
2014年5月28日(水)

歴史ある本堂にこのモダンな格子・・・・
これは耐震工事で作られたとのこと。
明るさも保ちつつ、古い建築物を維持するには様々な工夫が必要なのですね。

あら、本堂の奥に素敵な土間を発見!!
と思ったらこの空間はなんと、、、、

お手洗いだったのです!!
奥に見えちてはいけないものが見えている気がします…

さてさて気を取り直してこちらの障子、写真で伝わらないのが本当に残念!
波打ったように見える大正ガラスで出来ています。
揺らめくようなキラキラした輝きがとても素敵でした。


さて、いよいよ住職の小野さんに案内していただき曽我兄弟のお墓へ向かいます。

と、その前に本堂脇に大きなお地蔵様が!
このお地蔵様は、もともと箱根湯本と小田原の間にある入生田という土地にある紹太寺にありましたが、戊辰戦争の際、正眼寺の地蔵堂が焼失したため、贈られたものだということです。

こちらはお庭にて。箱根の名物、紫陽花も咲き始めてきました。

お地蔵様の脇の道を進んでいくと、曽我兄弟の弟、五郎によって、つけられた槍傷が残る「槍突石」があります。
江戸時代までは、旧箱根街道沿いの「槍突沢」というところに保管されていたそうです。和尚さんに言われなければ素通りしてしまうところでした。

本堂からさらに山を5分ほど上がるとついに到着しました。“曽我堂”です。
曽我堂は、日本三大仇討ちの1つといわれる、曽我兄弟の菩薩供養のため建立されたものです。
曽我兄弟の仇討とは、建久4年5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我十郎と曽我五郎の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。武士社会において仇討ちの模範とされていました。
そう!この私たちが訪れた日が曽我五郎の命日なのです。ちなみにお兄さんの十郎は翌日5月29日に斬首されました。

曽我堂の中にある曽我兄弟の像です。向かって左が兄の十郎、左が弟の五郎です。
曽我堂は江戸時代、東海道箱根八里の道中にありました。戊辰戦争時に戦火にあい焼失してしまいましたが、幸いこの両像は戦火を免れました。
その後、大正年間に歌舞伎役者の有志により再建され、今の正眼寺裏山に建立されました。

この曽我堂の書は、勝海舟と並び、幕末の三舟(さんしゅう)と呼ばれる山岡鉄舟によって書かれたものとのこと。
※幕末の三舟・・・幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。

住職の小野和尚のご好意で、本日は特別に曽我堂の本堂にお邪魔させていただきました。
和尚の話が加わり、いろいろと勉強になり、本当に時空を超えた素敵な体験ができました。

この書は、十郎・五郎像の中から出てきた巻物です。書のほかにも、中からは摺り仏が発見されています。

曽我堂の横には、大正時代の曽我堂建立に寄進した歌舞伎役者はじめ歌舞伎関係者の方々の名前が刻まれています。
曽我兄弟の仇討の話は、十郎の妻・虎御前によって伝えられ、江戸時代に歌舞伎の題材となったことで、現代にまで伝えられています。

よく見ると、中村雁治郎をはじめとした有名な役者さんがかなり多くみられました。

曽我堂から下山。本堂の境内にある「起雲閣」では、毎年曽我兄弟の命日に併せて先代住職、岩崎宗純氏秘蔵の浮世絵を公開してくれています。
なんと今年度は、5月30日からの公開でしたが、この散策倶楽部があるので、その一般公開の日をずらして散策倶楽部の貸切りにしてくださいました!


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